Nanami Hayashi, Ramen, 2022-2026
「多くの物事と同様に、味や料理も、一度味わっただけで判断できるものではない(……)。新しい味や調理法、それまで知らなかった味の組み合わせ等に初めて出会うと、人はいつも戸惑ってしまう。それを表現する言葉が見つからないのだ。」著書『Fade(味気ない)』の中で、作家の関口涼子は、長い間、馴染みのない料理と結びつけられてきたこの概念に注目し、ある食べ物を「味気ない」と評することが、評価対象の料理そのものについてではなく、むしろ私たち自身の限界について物語っていることを明らかにします。この事実を踏まえ、「理解できない」とか「通だけのもの」といった一種の宿命論に陥ることなく、著者は希望に満ちた展望を提示します。ある料理の本質を捉えるためには、私たち自身の食の「文法」から脱却し、未知の言語を学ぶ者の持つ謙虚さ そして希望 を持って歩みを進める必要があるのです。
NAFASもこの動きの一環です。ニューヨークを拠点とする非営利団体「The Invisible Dog」の代表、ルシアン・ザヤンによって2022年に創設されたこのアートフェスティバル、その東京での第2回開催は、岸本佳子が構想した新進アーティストに特化したアートセンター「BUoY Arts Center」との提携により、2026年9月4日から26日まで行なわれます。日本および海外から約60名のアーティストが、あらゆる表現媒体を駆使して「食」をテーマに制作に取り組み、単純でありながら根本的な一連の問いへの答えを探ります。「食べる」とはどういうことか? 大阪やパリで生まれた人、あるいはオハイオ州アクロン出身の人にとって、食事にはどのような意味があるのでしょうか? ブルックリンの旧工場を再利用した建物で一人暮らしをしている場合では、あるいは東京郊外の団地という公営住宅で40平方メートルの部屋を5人でシェアしている場合ではどうでしょうか? 誰かのために料理を作る時、私たちは単にその人に食べ物を与えているだけなのでしょうか? そして、その食べ物は体内に取り込まれた後、どうなるのでしょうか? 食べ物は、口の中を通り過ぎた時点で、もはや食べ物ではなくなるのでしょうか?
こうしたテーマは、古くから人類学者たちを魅了し続けてきました。というのも、食は間違いなく、ある文化を理解するための最も自然な入り口だからです。食は、人種の混血、追放、移住を映し出す生きた証人です。食は、家族の変遷、ジェンダー関係、支配構造を語り、そして、社会の変化を共に歩んできました。酢飯の上に生の魚をのせただけのシンプルな料理である寿司が、西洋でこれほどまでに人気を博し、今では友人たちとサッカーの試合を観戦しながら、自宅に直接配達されたものを食べるほどになったのは、寿司が、その発祥の地とは根本的に異なる文化的・社会的背景に適応してきたからです。それは他のどの寿司より偽物というわけでもなく、東京のミシュラン星付きの寿司より「本物」ではないというわけでもなく 新しい国に移り住んだり、服のスタイルを変えたりしたからといって、何かが「劣る」わけでもないのと同じです。単にその性質が変わっただけなのです。
実際、私たちが何を食べるかは、着る服や聴く音楽と同じくらい、私たち自身を物語っています。カリフォルニア風アボカドトーストとテキサス風バーベキュー、これらは、米国の民主党と共和党を分かつ断層線なのでしょうか? こうした固定観念が私たちの想像の中にこれほど強く根付いているのは、特定の種類の食べ物が特定の層の人々に限定されているからというよりは、むしろ「食べる」という行為そのものが根本的に政治的であるからに他なりません。ニューヨーク市長選の選挙運動の最中、社会主義者のゾーラン・マムダニ氏は、お気に入りのレストランについて質問を受けました。当人の答えは、「ケバブ・キング」、人気のタイ料理店「パイ・ボート」、そして地中海料理を専門とする「ジヤラ」でした。 単なる好みの問題なのか、それとも人々の日常に寄り添うための政治的戦略だったのでしょうか? おそらくその両方が少しは関係していたのでしょうが、一つ確かなことは、こうした選択が、「ビッグ・アップル」(ニューヨーク市)初のイスラム教徒市長への大衆の支持を後押ししたということです。フランスでは、ミシェル・サルドゥやシャルル・アズナヴールの歌をBGMに、豚肉料理や赤ワインを囲み、豪快な笑い声が飛び交う「巨大な宴会」が、将来の有権者を確実に獲得できる場として、最近、右派政党に活用されるようになりました。パッタイは進歩的で、ソーセージは保守的ということなのでしょうか? 幸いなことに、食は生き物であり、今日正しいことが明日も必ずしも正しいとは限りません。日本の江戸時代(1603年~1868年)には、白米は上流階級のものであり、農民は玄米で満足しなければなりませんでした。最近では、むしろその逆の傾向が見えてきており、東京の高級住宅街に住む都市住民たちは、白米に比べて栄養価が高い玄米を積極的に摂取するようになっています。北米に話を戻すと、アボカドは環境上の理由から敬遠されるようになり、テキサス州は「テクノロジーの王国」と化したカリフォルニアから逃れてくるクリエイティブな若者たちを惹きつけており、ブルックリンのトレンディなレストランでは、じっくり燻製にしたバーベキューが人気を博しています。食はアイデンティティを固定化するものではなく、その変遷に寄り添うものです。そして、食の伝統は決して死語などではなく、絶えず形成され続けているのです。
しかし、食が政治的なものである以上、権力関係の影響を受けないわけはありません。嗜好やアイデンティティの問題を超えて、食は古来より、支配者たちが自らの地位を固め、さらには被支配者を隷属させる手段として利用されてきたのです。20世紀初頭、ドイツ軍はナミビアで耕作地を没収し、水源に毒を流し、その結果、数万人のヘレロ族が命を落としました。より身近なウクライナでは、戦争捕虜たちがロシアの刑務所から、血の気のない状態で、飢えとトラウマに苛まれたまま解放されています。ヨルダン川西岸地区のジェニンでは、イスラエル軍が、パレスチナ人の大部分にとって経済的・食糧的な支柱となっているオリーブの木を、組織的に引き抜いています。というのも、食はまさにこの両極端に位置しているからです。食は生命を可能にする一方で、それがなければ間違いなく死を招くことになるのです。
明確な答えを求めないこれら複雑な課題は、芸術にとって理想的な探求の場です。「NAFAS Tokyo」では、展示作品のほとんどが本展のために特別に制作されますが、ビジュアルアーティストの金子由香は、日本においては社会的に非難される行為である「人前で食事をする」姿を、自ら人工的に映像に挿入することで、食に関する禁忌やタブーの根深さを問いかけています。フランスとレバノンの二重国籍を持つアーティスト、ベイブーン・サマは、自身の家庭のレシピに深く入り込み、料理における記憶の役割や、母系社会の中心的な位置づけについて問いかけています。フランス系アメリカ人のパン職人エマニュエル・レッケルは、3週間にわたり日本で発酵について研究を行ない、アーティストのカルヴィン・スタルヴィグはローソク芸術に取り組む予定です。クッキーが大好きな日本の写真家、片山真理は、クッキーを焼くために来日します。そして、それを通じて、アーティストが自分に割り当てられた表現媒体の枠から踏み出したとき、そのアーティストに何が期待されているのかという点を、間接的に問いかけようとしています。
「どんなに努力しても、ある種のニュアンスや響き、特定の表現や文法の側面は、翻訳の過程で常に失われてしまったり、その機能が変化してしまったりするものです。『趣』そのものに還元できない要素が果たす役割を、どのように翻訳すればよいのでしょうか? 組成や温度の重要性は? 文化によって、これらの要素の相対的なバランスはどのように異なるのでしょうか?」と、関口涼子はさらに問いかけます。芸術は、普遍的な言語として、おそらくその答えの端緒を示すことができるでしょう あるいは、少なくとも新たな語彙を提示することができるでしょう。食を取り巻く感情や感覚の世界 そして食がもたらすあらゆる想像の世界―を浮き彫りにすることで、芸術は、料理そのもの、それを味わう人々、そして料理を変容させ、その価値を高めたり、あるいは逆に消し去ろうとする社会を、新たな視点から読み解くことを可能にします。アラビア語で「ナファス」は「息」を意味します。しかし、それはまた、ある人々が持つ料理の才能のことであり、単に「上手」というだけでなく、「驚くほど見事」に料理できる能力を指します。政治的な対象として、食は、美食学や植物学、さらには栄養学を超えた解釈を求めます。そうして初めて、ありふれてはいるけれど普遍的なこの問い 「それで、ご飯は美味しく食べられた?」 の持つ全容を把握することができるのです。
エミル・パシャ・バレンシア
ジャーナリスト、写真家、刊行人。雑誌『TEMPURA』の編集長。
訳:和田利正(アンスティチュ・フランセ日本-日仏翻訳センター)
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